鬱、無職、窓辺にて。

現在はただの窓辺です

2019下半期:あいちトリエンナーレ(2/2)

続きです。
前記事はコチラ

f:id:shamp8:20200817063917j:plain

f:id:shamp8:20200817162916j:plain

■進化の衰退/パンクロック・スゥラップ
横4メートル以上もあるとても大きな木版画
人類が辿ってきた歴史を、人間を昆虫に置き換えて表現している(という見方でいいのか?)。
絵のそこかしこに「OBEY」「CONSUME」「STAY ASLEEP」など我々が社会から受け取るメッセージがビルの広告のように乱立している。
木版画をまともに見たのは初めてだったが大きいだけあって迫力がすごく、絵画作品のなかでは一番好きだったかもしれない。木版画いいなぁ。

f:id:shamp8:20200903225538p:plain
たぴ

f:id:shamp8:20200817063850j:plain
■声枯れるまで/キュンチョメ
性別・名前をテーマとした映像作品。名を変えて生きる決断をした数名が自身の生い立ちを話したあと公園で「声枯れるまで」新しい名前を叫ぶ。
上の写真はそれとは別の映像で、親子間で口論が行われながらも互いの手を重ねて元の名前の上から新たな名前を朱書きする。昨今「ありのままの自分」とはよく言うが、そう簡単に折り合いをつけることができない親と子の複雑さが表れていてとても良かった。
手法が単純だという意見も見かけたが、難解な作品が多い中でストレートに響いて好きだった。

 

f:id:shamp8:20200817063823j:plain
円頓寺商店街のステージで眉村ちあきちゃん見れた!ピッコロ虫が聞けて嬉しい。
オタクがよく調教されていてあったかい空間だった。良かった。

youtu.be

眉村ちあきちゃんはTIF2019の動画で知ったんだけど、ラストのピッコロ虫のところがめちゃくちゃいいんだよ途中の即興含め。22分から28分くらいまで見てくれどうか。


f:id:shamp8:20200817063927j:plain
■輝けるこども/弓指寛治
小学生6人が亡くなった鹿沼市のクレーン事故を題材にしている。
この大きな絵は、会場内にある非常口(?)を開けた先の中とも外ともいえぬ空間に飾られていた。彼らが向かった場所かそれともあったはずの未来か。
オーロラと桜が美しくて見入ってしまった。
f:id:shamp8:20200817063931j:plain
被害者の一人である愛斗くんは不思議な子で、小学生でありながらこのような詩をいくつも残していたという。場内にいくつか飾られていた。

今回で弓指さんのことを知ったのだが、母を自死で亡くした直後に描いたというトリの絵が可愛くて好きだ。

dot.asahi.com

さらにゲンロンカフェの弓指さん回を見て、18才という若さで自殺したトップアイドルの岡田有希子を知った。

vimeo.com

これ。とても面白かったです。
600円で見れます。


別でチケットを買って田中功起さんの映像作品「抽象・家族」を見たのだが、それが"日本に住む、日本以外のルーツを持つ人達"が同じ家で家族のように暮らしてみるという内容だった。
概要を大して確認せずに観覧したので、まさか自分のことがテーマになっているとは思いもせず不思議な気分で見ていた。
映像が終わると、なんと他の観客とグループを作り感想を言い合ってくださいとのこと。知らない人と話す機会などない日々だったし(そしてまだ鬱が回復していない時)、テーマが自分だったこともあって緊張して心臓が爆発しそうで気持ち悪かった。
全然うまく喋れなくて後からそのことを反芻してしまいしんどかったな。

ほんの少し人と話しただけでこんなにも自分がかき乱されてしまって、それは辛かったけど、他人と関わることは良くも悪くもそれだけのパワーがあるのだなと図らずも再確認させられてしまった。


あとは伊藤ガビンさんの全面プロジェクションマッピング作品がすごく楽しくて好きだった。一度しか見れなかったのが残念。変ないきものたちが銭湯に入ってるとこ楽しかった。

タニア・ブルゲラ氏の、社会問題への共感を引き起こすため展示室内に化学物質を充満させて客を強制的に涙を流させる、というのも面白そうだったな。抗議で閉鎖されていて入れなかったが。

 

3泊4日旅でも全部見きれなかったので印象に残っている作品はまだあるのだがこの辺で終わりにする。
初めて大きな芸術イベントに行って、むずかしい作品もたくさんあったけどとても楽しかった!
最後に、田中功起氏の当事者・非当事者に関する文章が良かったので載せておく。

 震災後(あるいはポスト・フクシマ)の状況の中でもっとも困難になったのは、非当事者による自由な語りだと思う。
たとえば「自分は福島出身です」は、問題との距離の近さを開示し、その人が、当事者として、フクシマについて語ることにお墨付きを与える。問題との距離の遠さは、語りを困難にする。
ぼくは震災を日本で経験していない。福島出身でも、被災地近隣の出身でもない。非当事者であるぼくが震災についてあるいは原発について語ることはなかなか難しい。それは容易に批判されるからだ。
問題への距離のあるぼくが震災を扱うとき、ひとはぼくが震災を利用していると受け取るかもしれないだろう。それでもぼくは、自分から距離のある問題をどのように自分の問題とするのか、ということをずっと考えてきたのだと思う。

非当事者として、当事者性の強い問題に関わることは難しい。
でも、非当事者であるということはある意味ではその問題に対して「余裕」があるということだ。
そして「余裕」なぼくは、そこに責任を感じる. 困難な語りの最中に身を置くことができるのは、 「余裕」があるぼくのような存在だからだ。
当事者の vulnerabilityを共有すること。
自分をその位置に重ねて考えてみること。
それでも恐れず語り関わること。
あなたにはそれができるだろうか。